サンフロント21懇話会 静岡県東部地域の活性化を考える
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第7回富士地区分科会 平成16年2月19日(ホテルグランド富士)
基調講演「経営について思うこと」

■講師略歴

鈴木修氏
スズキ株式会社代表取締役会長

昭和5年生まれ。28年中央大学法学部卒業。33年鈴木自動車工業入社。取締役、常務取締役、専務取締役を経て53年取締役社長就任。平成2年スズキに社名変更。12年同社取締役会長に就任、現在に至る。




 「企業経営者というのは年に2回審査を受ける」ということを私はいつも申し上げています。スズキでは月ごろに中間決算を発表し、0−3月の下期を終えると5月ごろに年間決算を発表する。ということで、年2回通信簿を公開するわけです。
 従って、こういう所に出掛けてきて、こうあるべきだ、という”べきべき論”を述べても、発表された決算を見て、「あいつ、富士でえらそうなことを言ってもたいした決算内容じゃないじゃないか」ということになると、評価を下げるわけですね。そういう点で(こういう席は)なるべくご辞退申し上げていて、たいしたことは言えないんですが、ただ一つだけ「スズキのCMだけはやらせてください」と、いつも言っているわけでございます。



ちょっとしたはずみが企業の命運を分ける

 スズキの創業は920年で、ことしで82年目。私は958(昭和33)年に入社したので、このうち43年間ス ズキにいる。
 戦前は鈴木式織機株式会社として、織物の機械を作っていた。戦争中は軍需工場に指定されたので途中から織機と同時 に鉄砲の弾などを作った。戦争に負けた945年から数年間は、ご多分にもれず鍋や釜を作ってしのいだ。その後、浜 松では本田さん(本田技研工業)を筆頭にオートバイのブームが起き、私どもの会社も952(昭和22)年に自転車 にエンジンを付けた(注:バイクモーター『パワーフリー号』発売)。浜松に門前市をなすがごとく全国からトラックが 集まり、買いに来たそうだ。ここで企業の命運だとか盛衰だとかの分かれ目を思うのだけれど、うちはそれでもうかった ものだから、自転車に付けるエンジンの方を中心にやっていった。一方本田さんはエンジン付きの自転車はやめ、本格的 なスーパーカブをつくり、これが一躍日本のオートバイ業界を席巻した。
 もう一つ。トヨタさんは昭和0年前後に自動車の研究に入った。当時あちらも豊田自動織機としてやっていた。うち のじいさん(創業者が鈴木道雄氏)も昭和年から2年にかけて、イギリスのオースチンという車を買ってきて、自 動車の分解を始めている。同じような時期にやっぱりやっている。欧米では、たとえばプジョーだとかシトロエンだとか も、農業機械やバターやチーズを作る機械などから自動車に移っている。世界のどこでも大体そんな方向だった。けれど も、私どものじいさんは調子者だったから、戦争中に軍需産業に転換したとたんにほかのものを捨てちゃった。それで自 動車が遅れてしまった。トヨタさんは軍需もやりながら、自動車の研究もした。これで大きな差がついた。
 評論家的に言わせてもらえば、ちょっとしたそういうところで、企業の命運というのが分かれていくのかなと思う。


農村の繁栄が戦後の復興を呼んだ―旺盛な需要が起爆剤に

 日本の経済の発展の原動力は、私は農地解放にあったと思う。それまでは土地を持っている人から田んぼや畑を借りて いた人が自分の土地を持つようになった。だから必死になって働いた。時あたかも、食糧不足の中で増産をやったころ。 そして農村の力がついた。だから農村でオートバイが非常に売れた。私どものオートバイも、キャッチフレーズは『百万 人の実用車』。堅固にして、荷物をどれだけ積んでも壊れないオートバイ、と。
 オートバイだけでなく、戦後冷蔵庫や洗濯機などの家電が大量に生産され売れたのも、実は農地解放が起爆剤だった。 農村の需要が非常に旺盛であった。農民がそれだけ物が買えた。これが戦後の日本の経済発展にもっとも寄与したと思う 。需要が多くないと、どんないい物を作っても安くはならないし、品質はよくならないし、第一量が多くならない。そう いう点で、人口の多い農村が繁栄したことが、日本の戦後の復興をきわめて速くした―私はそう分析している。
いつの時代も重要なのは教育  昭和33年当時、浜松には30社ぐらいオートバイを作っている所があった。それが昭和30年代の後半には今のホン ダ、ヤマハ発動機、スズキの3つになった。なぜ30社もあったかというと、本田さんに追従したということもあるが、 もう一つには、やはり浜松高等工業、今の静岡大学工学部の存在がある。浜松高等工業を出て、終戦後引き揚げてきた人 たちが、オートバイ産業の手助けをしたことが非常に大きい。
 もし、旧制の静岡高等学校が浜松高等工業で、浜松高等工業が静岡高等学校だったなら、 今日の工業都市・浜松はなかったと私は思っている。やはり教育の問題は、いつの時代にも大きく影響してくるのではない か。


いつの時代も重要なのは教育

 昭和33年当時、浜松には30社ぐらいオートバイを作っている所があった。それが昭和30年代の後半には今のホン ダ、ヤマハ発動機、スズキの3つになった。なぜ30社もあったかというと、本田さんに追従したということもあるが、 もう一つには、やはり浜松高等工業、今の静岡大学工学部の存在がある。浜松高等工業を出て、終戦後引き揚げてきた人 たちが、オートバイ産業の手助けをしたことが非常に大きい。
 もし、旧制の静岡高等学校が浜松高等工業で、浜松高等工業が静岡高等学校だったなら、 今日の工業都市・浜松はなかったと私は思っている。やはり教育の問題は、いつの時代にも大きく影響してくるのではない か。


商品はすごいテンポで移り変わる。生き延びるために新しい商売を

 こんなふうに織機からオートバイへと移行してきたが、オートバイも国内需要に支えられて大量生産ができたから、輸 出に乗り出した。970年代になると、あれだけ盛んだったヨーロッパのオートバイメーカーがつぶれてしまい、日本 のメーカーが需要を全部取ってしまった。40年経ったら今度は中国にやられそうという危機を迎える訳だが、1950年 代から70年代にかけては、日本がヨーロッパのオートバイメーカーを全部つぶしてしまった。それで輸出が増えた。
 主にオートバイで飯を食わせてもらったのは25、6年。70年代の後半から軽自動車を始めた。現在は、国内の需要 より輸出の方が多くなってきた。国内の生産が80−90万台に対し、海外の生産は00万台になろうとしている。  こうして見てみると920年の創業以来、(1)織機(2)国内のオートバイ(3)輸出・海外生産のオートバイ(4)国内の軽自動 車(5)輸出・海外生産の軽自動車と、5つに分かれている。これはこの80年間のうちに、5つの業種が替わったと言って もいい。私は三代目で、よく三代目は駄目だと言われるが、何も三代目が駄目なのではない。20−30年で商品の寿命 が来るということだ。下駄屋さんが、今でも下駄をやっていたら儲からない。蛇の目の傘も、番傘を売っていたら売れる 訳がない。下駄ではなくサンダルや靴になり、みんな洋傘を差している。ものすごいテンポでどんどん替わっていく。  私どもの社名も『鈴木式織機株式会社』から『鈴木自動車工業株式会社』になり、『スズキ株式会社』に変えた。名前 まで変えちゃうというくらい変化が激しいから、三代目が悪いのでなく、商品の寿命が大体何十年かで来てしまうのだ。 だから次から次へと新規の商売をやっていかないと、どこかで行き詰まってしまう。それが三代目のころに当たるのであ る。


お金は現場に落ちている−トップが率先して現場主義を貫け−

 昔南海ホークスの鶴岡監督がグラウンドにお金が落ちている。だからグラウンドで勝負しろ」と選手に言った。私は、 ものづくりはまさに「お金は現場に落ちている」だと思う。社長室には落ちていない。経理部にも落ちていない。ものづ くりの原点は現場にある。これが一番大事なことだと思う。
 いかに現場主義を貫くか。製造業のトップは、昔のように法学部万能で総務、人事、経理、管理をやった人がなるので はなく、やはり技術をやった人、現場をやった人がならないとうまくいかないだろうと私は思っている。ラベルを換えた 雪印さんの場合は、聴いてみるとほとんど総務、経理上がり。現場なんか行ったことがない人。やはり現場に足を運ばな ければ駄目。油の匂いが好きで、汗をかくことが好きな人が、トップをやらないと駄目だ。
 そういう私自身も実は法学部を出た訳だが、スズキに中途入社して経営企画室に配属をされて、4月から6月まで三カ 月間研修を受けた。7月日に正式配属となってまず何をやったかというと、社長室に行って「経営企画室は駄目だから 現場に行かせてくれ」と親父に言った。そこで「駄目だ」と言われて押し問答した訳だが、7月7日から現場に換えても らった。
 現場に入ってみたら、経営企画室の数字なんていい加減な数字ということがよく分かった。
 そこで私は現場にずっといて、工場建設もやらせてもらい、今では工場のことについては下手な工学部を出た人よりよ ほど私の方が現場を知っている。どこの工場のどこに何があって、どうなっているというのは大体分かっている。それは 現場をよく回っているからだ。


『一日一昔』の時代−トップダウンはコストダウン、ボトムアップはコストアップ

 だから社長室なんかで論議したって話はまとまらない。本当のことを言ってると思ったら間違いだから。「おまえの言 うことは全然分からん。現場に行って現物を見て、話を聞こうじゃないか」と言って現場に行く。現物を見る。そうする と、「実は」を言わざるを得なくなってくる。そこで『現場』で『現物』を見ながら、『現実的』な対応をやっていく。 『三現主義』と呼んでいるが、これが必要だ。よきにとりはからえ、は駄目。
 『トップダウンはコストダウン、ボトムアップはコストアップ』と私はよく言っている。トップが「これやれ」と言っ てやったらすぐ決まる。昔は十年一昔といった。これがどんどん速くなって、つい最近までは一年一昔、あるいは一カ月 一昔だったが、今や一日が一昔にまで変わった。従って、会議なんかやって、ズズズズッと下から上がってきたころには 、刺身で言えばもう青くなって腐りかけている状態。だからトップダウンでやらなければならない。
 それから十年一昔が一カ月一昔、一日一昔になったのだから、朝令暮改を大いにやらなくてはいけない。いったん決め たらとことんやれ、なんていうのは駄目だ。さっと引くことをしなければ。朝令暮改、大いに結構だ。
 しかしトップダウンでピシッと決めたら、それを実行するかしないかを、自分が現場に行って確認をしなければ駄目だ 。俺はゴルフにいくからやっとけ、というのは駄目。それはトップダウンではない。自分で現場で確認をすればいいか悪 いかが分かるから、朝令暮改がしやすい。三現主義がますます必要になる。


不況になればなるほど頭を使え、体を動かせ

 不況不況と言われているが、本当にいま不況かどうか。なぜ不況と言うのか?−マイナス成長だから。バブルの時のよ うに成長していないから−。だけど、どの国も永久に右肩上がりでプラスの成長なんて、ありえない。試しに、戦後の昭 和20から今現在までの成長率を合計して平均してみれば、マイナスにはならない。大変な高度成長を遂げている。そう やって考えていくと、今マイナス成長だから不況だ、と言うことよりも平均的なものを見ればいい。だから伸びて縮んで また伸びて、ということになるだろうと私は思う。
 では不況だから何をすればいいか、簡単なこと。働けばいい。だから私は、不況になればなるほど働きなさい、と言う 。時間を延長することだけが能ではないけれども、人一倍働くということが、必要ではないだろうか。体を動かさなけれ ば駄目。
 また販売店さんは「よくお客は見に来てくれて、これはいい車だいい車だと言ってくれるけれども、なかなか商談の成 立にはならない」とおっしゃる。だからいいのではないか。今までは来てくれて、はいポンと00万円の物を買ってく れた。でも今はなかなか慎重だ。けれどもお客さんはお金を持っていないかというと、実は持っている。先行き不安で使 わないというだけ。だからうちの従業員に私は言う。給料が下がったかというと、下がっていない。でもユニクロは安く 買えるわけだ。だから頭を使えば、売れないわけではないんじゃないか、と私は言う。
 頭を使え、と言うとうちの販売店さんは大体、「会長さんは頭いいけれども、私は頭が悪いからね。知恵が出せないん だ」とおっしゃる。冗談じゃない。足し算と引き算だけ知ってればできるんですよ。微積なんか必要ない。大きな数字か ら小さな数字を引けば残るから、儲かる。小さな数字から大きな経費を使えば、マイナスになるから赤字になる。これだ けでいい。
その大きな数字をどうして引くか。私どもの販売店でも「展示会をやってもなかなか商談に結び付かない。新聞の折り込 みをやる。DMを出す。それでお客は来るけれども商談にまで行かない」と言う。そりゃ駄目だ。広告やDMとかはみん なやってるんだから。それなら電話攻勢をかける。それもいいだろう。けれどももっと重要なのは、DMを販売店の近回 りに千枚出すよりも、千店歩きなさい、ということ。寒いからと言って、水ばな垂らして猫と一緒にこたつに当たってい て、商売できるわけがない。やはり自分でお客様を訪問する。販売店は大体街にあるから、だれそれさんの息子がことし いくつになった、学校を卒業した、結婚する、とかいろんな情報が入るわけだ。その気になれば。
 新聞折り込みやDMや電話だとかは、知恵を出す、ということではない。ごく当たり前のことだろう。ごく当たり前の ことをやりながら、体を動かして、face to faceで心を売って歩く。それによって本当にお客様の心が買えるから、車も 売れる。

   
「何でもいいから一位になる」の精神が切り開いた海外進出

 それから私はよく言うのは、何でもいいから一つだけ一位になる、ということ。うちは実はオートバイはずっと負けっ 放しで三番目だが、軽自動車だけはおかげさまでトップ。自動車産業に出たのはのメーカーの中で一番最後だった。 売上高では番から0番になり9番になり、今6番目まで来た。だけど、生産台数では実は4番目だ。トヨタさんで 日産さんでホンダさんでうちだ。小さいのでも一台、大きいのでも一台と考えるとうちは4番目なのだ。三菱やマツダさ んはうちより下。
社長に就任した時に何を考えたかというと、何か一つやらなければいかんな、と。そこで、どこでもいいから一番になろ うと考えた。47の都道府県は、全部金太郎飴のようにトヨタさんが一位だった。どこかで一位になろうとしたが、後発 だから47都道府県では勝てそうもない。とすれば、地球上で考えて、輸出をしていけばなれるのではないか。どこかいい 国はないか。小さい国でいい。ボルネオの所にブルネイという、人口2−3万人の国がある。国際空港を降りたらスズキ の車でいっぱい、という国をつくろうと考えた。意外にこれは簡単だった。
 975年にパキスタンに行った。当時は社会主義国で、自動車会社がなかった。それで首相にお会いして、当分の間 、ほかのメーカーの参入を認めるのをやめましょうと、言った。パキスタンの政府にも出資していただいて、一緒にやり ましょうと。「お前それはグッドアイデアだ」となって、独占だ。そうしたら一番だ。勝てた。それまでどこのメーカー も、パキスタンには出ていなかったから。政府と組んで、後発をやめさせちゃったから。こんないい条件はない。今パキ スタンでは、スズキのトラックはロバと呼ばれている。町の中をロバが荷物を引っ張って歩いていたのが、そのロバにス ズキのキャリーが換わったからだ。
 パキスタンで一位になったから、どこかもうちょっとないか、となったのがインドだ。今インドではスズキが40万台 を造っている。現在5のメーカーが出ているが、世界の大手メーカーと言えども3−5万台しか造っていない。うちが 圧倒的なのは、一番最初に出ていったから。983年に。996年にようやく自動車の自由化となって各社が造り始 めたが、うちは一位。だからインドの国民に、世界で一番大きな自動車メーカーはどこか、と聞くと必ずスズキだろう、 という答えが返ってくる。  二度あることは三度あるっていうじゃないか、ということで、海外戦略を続けている。イン ドネシアでは今では負けているが、それでも当時はA社さん、B社さん、うちと三社でトップ争いをしていた。今もなん とか二位を確保している。バリ島に行かれた方、あそこはスズキのジムニーばかりだったでしょ。占拠率が35%だ。 ということはどういうことこか。お互いにチャンスがある、ということなのだ、実は。


やればできる

 やればできる、という気持ちを従業員も持ってくれたのが、うちの強みだと思う。私が浜松に来た昭和33年ごろは、 浜松では日本楽器(現・ヤマハ)さんが一番大きくて、私どもの売上高が年間57億、月に5億にもならなかったのに対 し、既に年間300億の売上を達成していた。だから日本楽器大国だった。そのころ大昭和製紙さんも既に大きな売上を してらして、東の大昭和、西の日本楽器という状況だった。その時に、今に見ていろ僕だって大きくなったならば、とい う気持ちを持った。
私どもはおかげさまで売上一兆六千億円になった。40年あったら差は縮められる。だから皆さん方が今盛大にやってい らっしゃる、あるいは落ちぶれていらっしゃるということがあるかもしれないけど、自分一代で追い抜くことはできるの だ。麻雀やってると下駄履くまで分からん。下駄を履いても分からないときがある。やはり、その気になるかならんか、 ということではないだろうか。


物差しを変える

 昨年月ごろには、こういう新年の挨拶が多かったと思う。「20世紀が終わって新しい2世紀になった。2世紀 になったからには、20世紀の考え方では通らない。新しい考え方で新しい世紀を迎えることをしないと、これから生き ていけない」。私はその話を聞きながら、何言ってやんだい、2月3日までの考え方を月日で変えろだなんて、 そんなこと簡単にできるわけないじゃないか、と思った。  しかし考えが変わった。私は毎年0月に、有力外注工場を含めて現場の全工場を回る。で、昨年回ったときに、2 世紀になったら変わらなくてはならない、今までの物差し、今までのものの考え方を変えなくてはならないということを 、つくづく思った。
 一つ披露したい。不良率、達成率という物差しがある。不良率を考えると、たとえば0,000個に対して0%の不 良率があったとすると、,000個の不良品が出たことになる。%なら00個。0.%なら0個。0.0%にな ると個になる。昔我々は不良率が%台になると、そうか、良くなったなー、なんて言っていた。それが0.%になっ た。素晴らしく良くなった。だけどもうちょっと下げにゃいかんな、もういっちょ、ということで、 0.0%。これ、0,000個に個で、不良率としては素晴らしい。
 しかし0,000個に個で0.0%の不良率だとすると、自動車90万台を造ると90台不良が出ることになる。 その90台を買った人はどうなるかと言うと、その人にとっては00%不良なのだ。  もう一つ怖いこと。自動車は、数え方によっては3万とも4万とも言うが仮に2万個の部品からできている、としよう 。90万台造って、不良が90台、不良率0.0%だと、つの部品で90個の不良が出る。2万個の部品に90個ずつ 不良が出ると、80万個の不良が出る。ということは、自動車90万台のうち台に2個ずつの不良が含まれる、それ を皆さんが買ったら大変な問題。みんなリコールだ。
 いかに不良率というようなもので計算することが間違いだったか。万個に個でも不良は不良だ。何個不良かを問題 にし、それを限りなくゼロに近づけていくことが、今日の不良を減らすということだ。率、不良率なんてもので物差しに する時代は終わった。
 率という物差しがいかに問題か。たとえば失業率。5.6%で失業率が莫大だと言って、今雇用の確保だとか雇用保険の 延長だとか言って、みんなで働くな働くなと推奨せんばかり。だけど本当に失業率が5.6%で正しいかどうか。失業率イ コール家族が路頭に迷う率、飯が食っていけない率、として受け止められていたのが、今までの時代だった。だから失業 率を重視した。だが、いまは持てる失業者がいるしフリーターなんていう働いてない人もいる。だから、もう失業率を見 る時代は終わった。それをとらえて云々なんて言っていては駄目なのだ。
 不良率の話に戻ってもう一つ。円の部品の不良率が0.0%でも0,000個に個。0万円の部品の不良が0 ,000個に個でも、不良率は0.0%。ただし、会社に与える損害はどうなるかと言うと、円の物よりも0万円 の物の方が大きい。不良率ではなく個数とか金額で見ていく。物差しを変えねばならない。そういう時代を迎えたのでは ないかと私は思う。失業率もそうだし、学校の問題もそうだし、いろんな問題が率で計算される時代は終わったのではな いか。


お役所も国際基準になれ

 今まさに企業会計が、単独決算から連結決算へ大幅に変わった。と同時に国際基準になって、日本の基準ではなくなっ た。そこいくと市役所の基準は何の基準だ、ってことになる。退職給与引当金を取ってない。民間は全部取っている。浜 松市にオートレースをやめてしまえと言ったら、(退職金に)60億円必要だから大変だと言う。60億ぐらい貯めてい るだろうと言ったら、何にも貯めていません、と言う。全部儲けを一般会計に入れちゃった。肝心なオートレースの従業 員の退職給与は引き当ててない。予算発表を見ると、去年は億円ぐらいは儲かって一般会計に入れることができたが、 ことしは望みないと言う。だから私は言った。億円の利益が出たら一般会計に入れないで、億円相当分だけ従業員の 退職手当に充てて、5人でも0人でもいいからやめてもらう。それが将来にとってプラスになるんじゃないですか、と 言ったがそれをやらない。
 企業の経理基準は国際基準になっているけれども、お役所は全然国際基準になっていない。その国際基準になっていな い大蔵(財務省)の連中が、我々に国際基準を適用しようとしているのだから、こんな状態で(景気が)よくなる訳ない 。
 今や企業会計が国際基準になってきたという時代に、我々がいつまでも今までの物差しで考えていいかどうか、という 問題が出てきている。そうかと思うと、3.4という円周率を約3と覚えればよろしいというような、これは教育の堕落 だと、私は思う。大学でも理科系の国立大学が、5教科7科目の入学試験をやめてしまって3科目なんかでやったので、 理学部や工学部に行ってる奴に、物理や化学や数学ができない奴がいる。だから今の理科系を出た奴は、会社に来ても間 に合わない。仕方がないから企業で大学院に通わせて、勉強をもう一度し直させる。こんな状況の中で、果たしてものづ くりが守れるか。


ものづくりこそ文化−空洞化の危機をバネに

 中国での賃金は日本の三十分の一、韓国の賃金は四分の一。だからだんだん日本のものづくりはなくなっていって、中 国や韓国に任せればいいんだ、任せざるを得ないという論調がある。あるいは中小企業の皆さん方も、とても日本ではで きないから、中国へ中国へとなびいていらっしゃる。果たしてこれでいいのか。私は非常に危険を伴うと思っている。な ぜか。やはりものづくりこそ文化だ。こだわりを持たなければいけない。
 それならば、さきほどの率の話ではないが、我々が過去のものづくりで培った基準を、金科玉条のごとく保ちながらや ってきたこれまでのものづくりが、本当のものづくりであったかどうかということを、もう一度検証し直す時代が来たの ではないか。さきほどの物差しを変えるということと同じで、今の物差しでどうなのか。
 皆さんは今では中国から0万円以下の50tスクーターを持ってくるが、私はかねがねスクーターというのはt千 円、50tなら5万円で作るべきだと言っていて、業界で笑われ者になっていた。日本のスクーターは50tで大体4 −5万円、高い物は20万円している。それを海外へ持っていけば0万円以下でできる。そこで中国で作ろうか台湾 か、韓国かと言っているが、私はあえて日本で作れないかと、チャレンジしている。スクーターはタキシードやモーニン グを着て乗る車ではない。ジャンパーを着て乗る車じゃないか。それならば、ジャンパーを着て乗るにふさわしい機能を 持った車を作ればいいじゃないか。それが大変華美に流れているところに問題がある。
 そういうことを言うと、品質を落とすのではないかとよく言われるのだが、過剰品質と適正品質が何であるかが問われ るのだ。モーニングを着て乗る車の品質と、ジャンパーを着て乗る車の品質は、自ずから違ってるはずだ。それをもう一 度見直すということが必要であり、もっともっと考え方を変えればできるじゃないかと。それで、2月に新発売のスクー ターは万2千円で売ることにできた。5万4千円のスクーターをだ。これにはパートの活用とかいろんな理由があ るが、過剰な品質でないことがまず第一。もう一度ものづくりの原点を見直した結果だ。そうやっていくと、案外日本で も0万円を切るスクーターができるかもしれない。


ものづくり大国であるという過信が日本を誤らせた

 日本のものづくりが荒れたのはなぜかというと、ものづくり大国であると過信をしてしまったからだ。だからH2ロケ ットは落ちる、ラベルは換える。自動車業界でもリコール問題でお騒がせをする。みんなこれ、自信を持ってものづくり をやっていたのが実は間違っていたことの表れ。その間違っていたのが何であったかと言うと、技能を軽視したことと、 技術が衰退したことである。技能と技術にうまく調和がとれていないと、ものづくりはうまくいかない。
 さきほど言ったように、理工学部を出た奴でも5教科7科目の試験を通っていないから勉強していない。だから技術が 衰退する。それからIT革命だなんて言うもんだから、本当の職人さん、技能者が失われてきた。何でも机の上でものが 作れると思ったら大きな間違い。
 やはり技能が軽視されず、技術が衰退しないような教育を徹底しないと、日本のものづくりは衰退する。金額ではない 、コストではない、品質が問題になってくるのだ。
 さあこれから、国際競争の中でどうするか。
 繰り返しになるが、技能と技術を調和させながら、やはり我々が『ものをつくる』ということをあきらめないで汗を流 す、ということが重要ではないだろうか。いろんなところで空洞化の問題が言われているが、空洞化とはいったい何かと 評論すべきではなくて、今空洞化を防ぐために何をなすべきか、ということを見極める時代にきたのではないか。


旧弊をぶち破れ−産学協同にも活路が

 起業家精神とか技術開発力の問題などについても、産学協同の問題が出てきた。今こそ象牙の塔に閉じこもる大学の先 生、金のことを言うのは卑しいという発想の先生は全部やめてもらって、企業と協力をするという方に大学の先生をやっ てもらいたい。企業家の方も、先生なんて駄目だ、評論ばっかしてると言うのでなく、まずタッチをしてみる。話し合い をする。そして産学が協同する。
 幸いにして静岡県も「静岡TLOやらまいか」ができた。大学もトップ30に力を注ぐ話になった。トップ30、と文 部科学省が言ったら、差別になるからと横やりが入ったそうだが、トップ30でいいんじゃないか。いいやつはいいやつ 、悪いやつは悪いやつ。白黒はっきりつければいい。
 そして大学が統合される。今までお山の大将で、おい静岡大学だ、浜松医科大学だ、県立大学だと言っとったのが、統 合する。俺の身分どうなるんだ、と心配するような先生にはやめてもらおう。統合する、ということはリストラする、と いうことだ。いよいよ大学も汗を流さなくてはならなくなってきた。大変喜ばしい。非常にいい傾向になってきた。ここ で汗を流せば日本のものづくりはまだまだ捨てたものではない。



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