世界に誇りうる『教育の町「沼津」づくりは正念場』
一杉 真城(ヒトスギ塾塾長)
私たちは、どんな時代のどんな社会に生きているのか?生かされているのか? いつも考えていることだ。
1945年4月、満州国新京市生まれ。戸籍に記されている私の出生地だ。しかし、「満州国」という国は今はない。
1949年のイスラエル建国を描いた「栄光への脱出」(1960年、米)という映画がある。国連決議によりパレスチナ人に圧倒的に不利な条件でパレスチナの分割が決まると、ポール・ニューマン演じるユダヤ独立の若き闘士アリに、アラブの友人タハー(ジョン・デレク)は言う。「君たちは自由を得、私はそれを失うのだ。私たちの民族はどこに行けばいいのだ」。両民族の対立は激化し、50年を経た現在も戦火はやまない。
歴史に「もし」はない。しかし、もし私が満州という国で両親とはぐれでもしていれば、日本人として育たなかったかもしれない。もう少し想像力をたくましくしてみる。もし日本が戦争に負けず、私がその後も満州で育っていたら、荒唐無稽かも知れないが、満州国民としてのアイデンティティを得て、独立を目指し、アリのように地下組織のメンバーとなって、日本国に潜伏でもしていたりしていたかもしれない。
私は幸いにも、すっかり平和呆けした日本国民として、今年1月24日に生まれた初孫「健吾」を相手に目尻を下げている。有りがたいことだ。しかし、そうした出自が影響しているのだろう。国や民族、地域といったものへの意識は人並み以上だ。自らが生まれたり、育ったり、生活したりする土地は、いくつもの「もし」の中からたった一つ選ばれた、意味のある場所だと意識をし、信じているからだ。
昭和から平成へ年号が変わる時、私は沼津学園の経営する桐陽高等学校の「留学クラス」創設のプログラム作りに参画した。三年の約束が請われて五年となり、成長した子どもたちの姿に接することができたやりがいのある仕事だった。だが、国語や日本の歴史をきちんと教え、日本人としてのアイデンティティを確立させて子どもたちを送り出すべきだという私の考えは、目先の受験結果にこだわる学校にはなかなか受け入れられず、議論はいつも空回りした。見識の二文字がいつも浮かんだ。
見識が無いといえば、日本人の見識の低さを痛感したこんな出来事もあった。加藤学園の富士フェニックスの短期大学とアメリカ・フロリダ州のリン大学との合弁大会KLCについてだ。副学長が、ボード・オブ・オーバーシーズで参画してくれというありがたいお誘いだった。しかし、現場の先生方が留学に不可欠な学生ビザ(F−ビザ)を発給させる機能を持たないまま見切り発車しようとしたことから激しく対立してしまった。結局はアメリカの信用を失い、合弁大学は空中分解してしまった。
さて、いよいよ本題だ。
町の中心部を狩野川がゆったりと流れている。太平洋に面した駿河湾から日本一の富士山を望むことができる。沼津の町そのものがキャンパスになるような教育の町づくりに沼津の未来を賭ける―大学院大学のような高等教育=研究機関を創る提言をしたい。サンフロント21懇話会に一席を与えられ、運営委員会の末席を汚させていただいているのも、その一念でしかない。
今、沼津には、地域の独自性を発揮し、地域を挙げて取り組まなければならない問題がある。来年度から中等部を新設し、中高一貫教育を開始する沼津市立沼津高等学校のことだ。私は早くから関心を持つ諸兄と共に「沼津教育改革市民会議」を立ち上げ、校長公募制の提案を含む提言書を市に提出させていただいた。新しい学校には、市民の声を受け、思い切った改革のできる新しいトップが必要だと考えたからだ。最終的には行政の召集した「有識者会議」の答申を受ける形となったが、ともかく校長公募は実現した。
しかし、問題はそれをどう実施するかだ。市民が本当に望む教育を実現できる学校づくりを行うためには、校長選考の過程を市民に公開し、選出にも参加してもらう形で実施してはどうかと提言を行っている。「応募者のプライバシーの問題があり、公開は難しい」との行政側の声も漏れ聞こえるが、それでは市民も納得いかないし、関心も呼び起こせない。せっかく公募する意味も薄れてしまう。中途半端な、その場しのぎならやらない方が良い。「沼津の宝である子どもたちを共に育てる」という熱い思いの伝わる施策を望みたい。
21世紀は教育の時代―このフレーズが単なる掛け声で終わらないように。「沼津の百年の計」を打ちたてるためにも、どうやら今年は正念場のようだ。
|