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第8回全体会 平成14年11月21日(みしまプラザホテル)
記念講演「グローバリゼーションと日本の文化」

■講師略歴

河合 隼雄氏
文化庁長官

昭和3年6月、兵庫県生まれ。臨床心理学者・心理療法家。京都大学名誉教授。現在、文化庁長官。
27年京都大学理学部卒業後、高校教師(数学)となるが、生徒の相談を受けることで心理学の必要性を感じ京都大学で臨床心理学を学ぶ。その後、アメリカ留学を経て、42年京都大学教育学博士。さらに37年から40年までスイスのユング研究所に留学し、日本人初のユング派精神分析家の資格を取得。日本における新展望を開いた。また、神話や昔話(ファンタジー)の研究も行い、海外の案和との比較研究・日本文化論等を臨床心理学者としての立場から積極的に発表し、海外でも講演等を通じて発言している。
著書や論文は多数あり、57年「昔話と日本人の心」で大佛次郎賞、63年「明恵 夢を生きる」で新潮学芸賞を受賞。近著として「声の力」、自伝「未来への記憶」などがあり、実践に基づいた説得力ある論考は従来の人間心理の解釈に新しい視点を開き、心理学のみならず分野を越えて多くの国内外の研究者・文化人に多大な影響を与えるとともに多くの一般の人々の共感も呼んでいる。
また、故小渕主張の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会座長、教育改革国民会議委員、文部科学省顧問を務めるなど日本の政治・教育にも幅広く貢献している。
平成7年4月紫綬褒章受賞。8年3月NHK放送文化賞、10年1月朝日賞受賞。12年11月文化功労者顕彰。日本心理臨床学会理事長等も務める


グローバリゼーションの中で起こること

 グローバリゼーションという言葉はよく知られていて、その勢い、その力というのを皆さんはいつも感じられていると思う。グローバリゼーションとは結局、いろんな意味のコミュニケーションのことである。人間の行き来もそうだが、特に電波によって、世界中どんどんインフォメーションが伝わってくる。
 その結果、いろいろ面白いことが起こるだろうと言われている。一番はっきり出てくるのは経済の問題で、今までなら時間がかからないと分からなかった株価などの経済的な状況が、世界中でいっぺんに分かってしまう。すると日本の経済が世界のほかの経済から大きい影響を受けるようになって、どうしても一様化してくるようなところがある。アメリカの考え方がどんどん強くなって、経済的な交渉をするときでも、いやこういうような考え方でやりなさい、となる。それで間違えて、世界中が一様になってしまうと感じる人が多いのだが、もともとグローバリゼーションには世界がみんな同じようになるという意味はない。世界中のコミュニケーションが非常に速くなる、そういう意味なのである。
 考えてみれば地球が同じように一様化していいはずがない。文化というのは多様なもので、多様な生き方があるから面白い。ITというのはどんどん進んでいて、おそらく今我々が重いなと思っているコンピューターもいずれは時計のようになってきて、その辺をちょっと押すと今ロサンゼルスは雨だとか東京で何があるとか全部分かるようになるだろう。ところが奥さんが何を考えているか、これは絶対に分からない。ここが人間の面白いところなのである。ここのところを我々はよく知っていないと、一番大事なことを忘れてしまって何でも分かると思い込むと思う。


父性の原理と母性の原理

 そうは言うものの、それぞれの文化があるということと、世界が一つということとは、考えてみると非常に難しい。私がスイスにいた時、息子の幼稚園に背の高い子がいたので聞くと、先生が「あれは小学1年生が落第して来ている」と言う。びっくりすると今度はスイスの先生がびっくりして「日本は小学1年生を幼稚園に落第させないのか」と言う。「そんなこと絶対にありません」と言ったら、その先生が「日本はそういう不親切な教育をしていてうまくいくのか」と言われたのである。そこに「親切」という言葉が出てきたので、あっと思った。確かに、勉強ができないのだから幼稚園に戻してあげようというのは、考えようによってはすごい親切だと思う。これがスイスの親切。日本の親切はどうだろう。1年生、何にもできないけど2年生にしてあげよう、これが日本の親切である。お互いに親切にやろうと言っていても、考え方が違うんだということを体験した。
 もう一つ、「公平」という考え方が違う。日本のビジネスマンに聞いた話だが、あちらの女性を3人雇って1年経ったので全員昇給させた。するとすぐに1人が来て、「3人の中で私が一番よく働いている。なぜ同じように給料を上げるのか」と言った。そこで困って、分かっているけれど1年経ったから公平に上げたんだと思わず言った。そうしたらその女性が「何をフェアと言うんだ。できる者を上げて、できない者を下げるのをフェアと言うんだ」とカンカンになって怒ったという。確かにそうだ。できる者もできない者も月給を上げるのは不公平と言うものだ。ところが日本人は、一緒に入ったのだから一緒に上げる、そういうときに公平と言うのではないだろうか。
 どっちの親切が正しいのか、どっちの公平が正しいのか、皆さんはどう思われるだろうか。これはどんなに議論をしても本当のところは分からない。言ってみれば考え方の原理が違う。私はその違いに父親、父性の原理と、母親、母性の原理という名前を付けた。外国で日本人の考え方は分からんと言われたとき、いやそうではなくてあなた方と原理が違う、父性原理・パターナルなプリンシプルと母性原理・マターナルなプリンシプルがあると言うと非常によく分かる。簡単に言うと、父性原理の方は切る力が非常に強い、区別する。一方の母性原理は包み込む力が強い。父性原理も母性原理もどちらも一理ちゃんとあり、どちらが正しいと言えないから本当に難しい。日本は欧米に比べると母性原理であるが、そもそもヨーロッパが創り出した非常に父性の強い文化の方が、世界でも非常に珍しい。大体、キリスト教文明以外の世界は母性原理でやっていた。なぜ父性が強いかと言うと、背後にキリスト教があるからである。私はグローバリゼーションや文化は宗教を抜きには考えられないのではないかと思っている。文化の背後にあるものを真剣に考えるべきだ。

父性原理の中から科学が生まれた

 切る力、区別する力の強さから科学が出てきた。ただボーっと見ているのではなくて、形が違うとか色が違うとか、どんどん切っていくと分子、原子まで行って、原子もまだ割っていく。分割して区別してその差を見て考えることを、徹底的にやったところから自然科学が出て、それを組み合わせて技術が出てくる。科学と技術がヨーロッパの近代から出てきて、それがアメリカに渡ってその強さが今世界を席巻していると言っていい。便利な世の中に便利にやっていこうと思ったら、科学と技術は捨てる事ができない。
 父性原理の方のポンポン切っていく考え方はいわば大成功しているが、そうするとその根本の背後にあるようなもののところで我々はどうなるのか。たとえば私が花を見たときにああ綺麗だなあと言うのは科学的ではない。科学的な見方は色が違うとか、形が違うとかということで、私と花とは切れている。それを皆さんは客観的に観察するという言い方で習われたと思う。私がこのコップを見て、これは重さがいくらとか形状が何センチとか客観的に観察すると、私が観察したことは世界中だれにも通用する。客観性というのはここがすごいところだ。だが、この時計を見せて「これすごくいいでしょう」と言ったら答えは違ってくる。それは愛想でへえと言うかもしれないけど、腹の中では安いの持ってるなとか思っているかも分からない。実はこれは私の友人で非常に才能のあった人がスイスで亡くなった時にはめていた時計だなんて言うと、また考え方が変わってくるだろう。時計と私と皆さんとに関係ができてくる。これは科学の話ではない。
 それからもっと恐ろしいのが値段がいくら、ということ。なぜかと言ったら値段が付くとすべての時計が一列に並ぶ。人間でも、会社で社長をしている、新聞記者をやっている、とみんな違うが、年収で言ったら一列に並ぶ。言ってみれば、グローバリゼーションにはその怖さがあるのである。みんな客観的に全部分かってますよ、それじゃ年収で並べてみましょう、というのと似たようなことが、この中にあるわけだ。

急激に科学を取り入れた日本では心がついてきていない

 そうすると何でも「便利」(を基準)で行けるんじゃないかと間違う人が出てくる。ある時、不登校で高校に行かない子供を持つお父さんが私の所へ来て、「先生、ボタンをパッパッパッとうまく押せば人間は月へ行って帰ってくるんですよ。それがたった一人の高校生を学校に行かすボタンはないのですか」と息巻いたことがあった。「そんなのは良い方法があるんですよ。今晩息子さんが寝られた時に簀巻きにしておいて下さい。私が朝担いで行って放り込みますから」と答えたら、それは困ると言うので、私はこう言った。「うちの子に高等学校へ行ってもらおうというふうに考える限り、自然科学の答えはありません」。自然科学の考えで行けば、子供を物扱いにしたらいくらでも動かせる。ところが人間と人間の関係ができたらこれはもう話が別であり、子供を上手に学校に行かす方法というのはない。そこのところを考え間違いする人が多い。子供でも上手に育てたら良い子ができると思っている人がいるが、それでやろうと思ったら子供はうまくいくはずがない。すると腹が立つので、このごろ虐待なんていうのが非常に増えてきた。自分が思い通りに子供にできると思っているからである。しかし、思い通りにいかないのが家族というものである。人間には人間の関係がある。そして、それをどう生きていくかという非常に面白い問題がある。しかしそれを放っておいて、一方で自然科学の方はどんどん進んで便利になっているので何でもできそうに思ってしまうから、非常にアンバランスになっている。
 簡単な言い方をすると、科学技術のおかげで日本はものすごく豊かになって便利になっているが、それに追いつくだけ心の方が上がってきていない。心は昔通りのところにいて、このバランスが良くないので、今日本は色々問題を起こしている。心の側をちょっと忘れすぎているんじゃないか。これからこっち側もやっていこうというふうに考えたら、日本の文化はまだまだうまくいくのではないかというのが私の考え方である。

日本人の食べる物が心貧しくなっている

 兵庫県の姫路に不登校の高校生を寮に入れて勉強させるという所をつくった友人が言うには、そこに来た高校生の家はみんな中産階級以上の金持ちだが、みんな貧しいものを食べているそうである。栄養はあるけど心貧しい物、店から取った物とか、チーンとやった物。そしてだれも美味しいものの味が分からない。友人がその学校をつくった時、最も一生懸命になって探したのは賄いの人だった。みんな一緒に暮らすんだから何とか美味しい物を食べてもらおう。プラスチックのプレートはやめて、上等な鉢に好きな物を選んで取って、美味しかったなというのをまず経験してもらおうとした。ところがほとんどの子は美味しい物を美味しいとも言わない。端の方に行ってぱっと食べて終わってしまう。食べる時の雰囲気がない。それを一生懸命やっているうちにだんだん味が分かってきて、今日のこれはうまかったとかおまえそれ取れよとか言ってやりだしたら、みんな学校に行くようになるそうだが、そんなふうになってしまうほど、一律に決まりきった事をやりすぎている。
 このごろはみんな食べ物が貧しくなっているのではないか。要するに、心貧しい。私は日本の文化は心という点で、食べ物のすごい豊かな国だと思っている。それが今ちょっと、アメリカばりに心は豊かでないけど栄養ばっかりあるというそれに、やられかかっているんではないか。ここは大事なことだと思う。
 もう一つ、青森の方に森のイスキアという家を建てた佐藤初女さんの話をしたい。佐藤さんは来た人にともかく美味しい物を食べさせる。お金を払いたかったら払って下さい、払えない人は食べて帰ってくれたら結構です、というすごい事をやっている方だが、要するに日本人の食べる物があまりに貧しくなっている、だからせめて私は美味しい物を食べてもらうことをしたい、という訳である。握り飯一つで自殺志願の青年を思いとどまらせた話が有名な佐藤さんだが、その佐藤さんの所へ私の知人が行って、握り飯そのものも美味しいが中の漬け物がものすごく美味しい、レシピを教えてくれと言ったら、そんなものありません、あるはずがない、という返事が返ってきた。暖冬の時もあるし、寒い時もあるし、大根にしたってよくできる時もあるし、できない時もあるし、いろいろ違うんだと。だからいつも同じようにやっていていいものができるはずがない。その度に違うということを考えないといけない。皆さんもお分かりだと思うが、日本人はそういう感覚を相当持っている。日本の伝統的な物の中にはそういうのが非常に沢山入っている。人間と人間との関係でもそう。あんまり物を言わなくても分かる。こういうものを持っている。

キリスト教の国の人間のコミュニケーション

 
だから「日本は素晴らしい」、「日本はいい」ということを言いすぎる人がいるが、そうするといっぺんに反撃される。そこを我々はちゃんと説明できて意見も言えるようにならないといけない。どういうふうに説明するのか心の中に持っていないと誤解ばかり招く。
 このグローバリゼーションの中で日本人が生き抜いていくためには、個というものがもっと強くならないといけない。「皆さんと同じように」とか言っていないで「私はこう思います」ということをどうしても言わなければならない。しかし、日本人には謙譲の美徳という考えがあるので、これがなかなか難しい。日本人なら、いえ私知りませんって言っていても知っているなということは勘で大体分かるし、逆に知ったかぶりしてもすぐ分かる。その辺は鍛えられていて、言語以外のコミュニケーションを我々はものすごくよくやっている。しかし、欧米では全然通用しない。言わない奴は知らない奴、とこうなる。
 そうすると今度は誤解する人が出る。40年ほど前私がアメリカにいた時、アメリカ人とは景気よく調子よくやればいいんだと心得て、ばっと入って行った日本人の男がいた。私たちはあいつは嘘ばっかりついてとか言っていたが、その男はアメリカ人の友達もできてうれしくなって奨学金がなくなってもアメリカに住むと言いだした。ところが就職口を探してくれと頼むと、ほとんどが残念ながらおまえを推薦できないと言う。なぜかというと嘘を付くから。みんな付き合っているけれど、心の中ではこれは信用できないと思っている。私はアメリカ社会の怖さというのを本当に思った。それで、その男はもう仕方ないとハンバーグ屋に勤めた。ところがそこからがまた面白い。その男は自分の間違いが分かって生き方を改めるのである。そうしたらまたそれを見て信用する人が出てくる。職業も変わっていける。できるできない、その判断がすごくはっきりしている。
 これは私が向こうに行って気が付いたのだが、アメリカ人は本当に嘘は付かないようにしている。たとえば私が笛を吹くと、誉めるのは上手だから、日本の感じが伝わってきたとか言ってみんな誉めに来るけれど、よく気が付いたらだれも音色がよかったと言っていない。つまり音色が悪いのによいとは絶対言わない。自分が感じた中で本当のことを言うのである。なんでもいいから無茶苦茶誉める日本人とは違う。だからそういう厳しい中で日本人が自分を表現しようというときに、上でもなく下でもなくぴったり物が言えるようにしなければならない。これはよっぽど練習しないとできない。

日本では何を背景に個人主義を伸ばすのか

 最近あるところで聞いて唖然とした話だが、給食を食べない子に先生がちょっと食べなさいと言っただけで、親が学校に文句を言いに来た。うちの子はああいう給食を食べないという個性で生きている、その個性を学校教育は潰すのか、と言ったという。そんなところに個性なんて言葉をアメリカ人だったら絶対に使わない。そんなのは個性じゃなくて勝手というだけだ。しかし皆さん、この勝手なのか個性なのかということを、区別するのは難しいと思いませんか? 欧米のように個人主義が出てきた国なら、背景にキリスト教があるから、キリストの神が悪いと言っていることは絶対に悪いというのがはっきりある。この人たちは本当に自分のことを表現するし、人が何と言おうと頑張って好きなことをしようというところがあるんだけど、すごく厳しい倫理観を持っていて、悪いことはしない。だから個人主義だけど利己主義には絶対ならない。
 ここのところを日本人は見落としているのではないか。神様が背後にいて、それの言う悪いことはしないけれど私は好きなことをしようという人間と、何もなしで勝手にやろうという人間とは全然違う。グローバリゼーションの中で個を伸ばしていくときに、身勝手にならないためには何で日本人を支えるのか。それを日本人は今まで考えなさ過ぎた。明治以来、科学技術を取り入れて追いつけ追い越せで頑張ってきたのだけど、その背後に動いているものまで考えがいかないままきた。それで若い人は好きなことをしようとする時にキリストが背後にいないから人を殺したっていいじゃないかと思う、極端に言うとそこまで行ってしまう。ここのところを、これから日本人全体として十分に考える必要があると思っている。日本で本当に個人主義をやるんだったら何を背景に個人主義を伸ばすのかということを、本当は我々学者と言われている人間がみんなで考えて発言すべきだったのに、だれもそんなことは考えていなかったというのは大きい問題だと思う。

しがらみを切ろうとして孤立する日本人−家族が一番難しい−

 こうした中で、一番はっきり問題が現れてくるのは家族である。日本人は今までは家というものをすごく大事にしていた。しかし、家という考え方に力点を置くと個人は圧迫される。家のためにおまえは後を継ぐんだから大学なんか行くなとか、恋愛してもそんな身分の違うのと結婚してはいけないとか言われたり、我々の子供のころはそういう体験をすごくしている。そんなふうに全体を大事にして、みんなで盛り立てて家名を残していこうという考え方で日本は生きてきたのだが、それこそマッカーサーが来て日本の憲法は変えられて、もっと個人を大事にして自由にやるように変わった。これはいいと言えばすごくいいわけである。昔に比べるとみんな好きなことをできるのだから。
 また昔はみんな家族一緒になってご飯を食べて家族団欒してよかったと言われるが、家族団欒といって喜んでいるのは親父だけで、陰で支えるお嫁さんはどれだけ泣いていたか分からない。みんな泣かないでやれる本当の団欒というのはなかなか難しいというのでバラバラになったが、これを見て私の友達の外国人は、日本人の家族はほとんど一緒にご飯を食べないし、食べてもあんまり会話がないし、何をやっているのかと言う。アメリカの学生にあなた夏休みの楽しみは何?と聞くと「家族旅行」というのがすごく多い。あちらの人は一人一人独立しているから家族は仲良くするのである。日本の場合はうっかり親と旅行すると、説教があったりかまわれたりするからうるさくて仕方ない。
 そしてあちらの人間はみんな個人として生きているから、親しい人間を持っていなかったらどんなに孤独に陥るかということをすごくよく知っている。日本人はなんのかんの言ったって喧嘩したり文句言ったりしながら孤独にならずに生きていけるというところがあったが、それを今はしがらみを切ろうとして孤立してしまっているんではないか。
 今はもう家名でやれない。家族が本当に独立した個人としてお互いに付き合うということを、日本人は考えないといけないんじゃないか。日本の文化を支えている非常に大事な単位としての家族というものが、今一番難しい。これは日本文化の根本問題で、日本の一番大きい問題じゃないかとさえ思っている。真剣に考えなければならない。

物にふさわしい心を使うとうまくいく

 日本の家族を圧迫しているのは物だ。物があり過ぎるとお父さん、お母さんの価値が分からなくなる。私の親父なんか物がないおかげでどれだけ威張っていたか。うちの親父はお呼ばれに行ったら、折り詰めをちょっとだけ食べてあとは持って返ってくるというのが役割だった。我々がどれだけそれを待っていたか。帰ってきたら折り詰めを開けて、切ってもらった薄い薄い羊羹を食べて親父は偉いなあと思っていた。今羊羹一つで子供に尊敬してもらおうというのは不可能じゃないか。
 しかし、物があるから駄目なのかといったら違う。物にふさわしい心を使うとうまくいくのである。どう心を使うかというと、たとえば私の家はデコレーションケーキというのは誕生日以外は食べないことに決めていた。そうするとそれだけでものすごく盛り上がる。本の買い方でも、下手な人ほど沢山買う。僕らが子供の頃は子供の本なんて滅多に買ってもらえなかった。そうすると頼んで頼んで一冊買ってもらって、その一冊を兄弟で分けて何べんも回して読んで、覚えてしまって兄貴と演劇をやったり、そこまでする。それなのに今は、みんな金があるから心を使わずに金で解決しようと思う。うるさいなあと簡単に買ってくれるのでは、子供には本当にお父さんが自分が好きかどうか分からない。そうじゃなくて安いものでも嬉しいこととか楽しいことはいっぱいある。やっぱり幸福に生きるためには心を使わないといけない。演出するという、親父の工夫がいるわけである。
 そういうのをみんながちょっとずつ生活の場で考えていけば楽しくなって人間関係ができて、物に匹敵して心が豊かになっていく。かといってそれは、科学技術とかITとかいうのは駄目だからやめて、というのと全く違う。それはどんどん取り入れて負けないようにやっていくけれども、それに相応する心を使うのを忘れないようにする。そのことによって、日本の文化の中に我々が持っているものがまだまだ生きていくと思っている。


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